青空とともに生きる

ベートーヴェンについて調べましたーボン時代

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少しでもベートーヴェンの人物像が正しく理解できるように!ボン時代のベートーヴェンについて調べてみました。「ベートーヴェンの生涯」平凡社新書10周年 青木やよい著を参考にさせていただきました。「ベートーヴェン」新潮文庫 平野 昭著が有名ですが、青木やよいさんの長年に渡る研究と情熱は素晴らしいと思います。

 ボン時代のベートーヴェン

(1)おじいさん
当時ドイツは、小さな沢山の領邦国家に分かれ、ボンはケルンの領主が治めていた。代々、芸術を重んじ、大切にしていたから、近隣から多くの芸術家が集まってきていた。おじいさんも現在のベルギー領フランドル地方出身。家は商家だったが、少年時代から美声に恵まれ、5歳で教会の聖歌隊員、その後、教会付オルガン奏者を経て教会のバス歌手をしてるところを見出されて、高給でボンに迎えられた。この時21歳。間もなく結婚し定住。やがて、宮廷楽長になる。これは当時として大成功の事例ですね。社会的な地位も収入も高い! 子供は何人も生まれたようだが、無事成人したのは、ベートーヴェンの父ヨーハンのみ。妻は、アルコール依存症で修道院の施設で亡くなっている。(子供を多く失った辛さからか?真実は不明。)
(2)父
ヨーハンは、早くから音楽教育を施され、12歳で礼拝堂のボーイ・ソプラノとして出仕。声楽の他にピアノやヴァイオリンも学び16歳で宮廷音楽家の資格を得ている。宮廷で働きながら、上流家庭の子弟たちに声楽や器楽を教えて、恵まれたまじめな青年として27歳まで親と暮らしていた。その後、21歳の未亡人マリアと結婚して家を出ていくことになるが、ヨーハンの父親が反対したらしい。理由は様々説があるが、分からない。(マリアの父は、宮殿の料理長で親戚も社会的に地位のある面々だったらしい。)
(3)ベートーヴェン誕生
家を出ても同じボン。生家は今も保存されている。近くの聖レミギウス教会の洗礼名簿に第二子として1770年12月17日の日付が残っているから、12月16日生まれとされている。子供は5人いたようだが、成人したのはベートーヴェンと弟2人の計3人。マリアは先夫の子3人すべて失っている。当時の乳幼児の死亡率は高かったようだ。多くの女性は悲劇を味わっている。 結婚に反対していたおじいさんも、次第に嫁と打ち解け時々遊びにきてたらしい。マリアはやさしく、まじめで、しっかりしていて、聡明だったようだ。おじいさんは、ベートーヴェンの洗礼にも名付け親として立ち会っている。近所の人も孫の手を引くおじいさんの姿を目撃しているという。 そんな、おじいさん、1773年12月24日61歳で(孫は3歳)脳卒中で亡くなっている。ベートーヴェンの才能と活躍を見せてあげたかったね。
(4)おじいさんの死から下り坂へ
社会的な信用も経済的な安定もすべておじいさんがいたからだと言われている。それだけ、ヨーハンがだらしないとも言えるが。おじいさんが亡くなってから、広い家に引っ越している。宮廷楽長の座が回ってくると思ったらしいが、残念ながらそうはいかなかった。これからすべて自分が家族の面倒を見ることになる責任感にまともに向き合えない、自己認識に甘さのある有名人の息子にありがちな転落人生に向かう。飲酒におぼれ始める。
(5)ヨーハンの教育
ヨーハンがベートーヴェンの才能を発見してから、異常なほどの徹底した教育が始まった。酔っぱらって帰ってきて夜どおしピアノを練習させたり、無理やりで乱暴なやり方をしたそうだ。ベートーヴェンは即興演奏が好きだったらしいが、それが見つかると叩かれたりした。モーツァルトみたいにして、収入を得たいという意図もあったらしい。実際、演奏会の開催や、そのための広告も作っている。その広告には、年齢を実際より低くして、神童を思わせようとしている。父親のこのような行為や言動により、ベートーヴェン自身もこの時から生涯自分の実際の年齢をはっきり把握してなかったようだ。わざと外出ぎらいになり、家族が出払った家で一人になったとき、即興演奏に興じるのが唯一のなぐさみだったらしい。 でも、こんなやり方されると反発して、音楽嫌いになるかも知れないが、ベートーヴェンは耐えてむしろ音楽を自分の中に吸収していったのだろう。ヨーハンのもくろみが役に立った。本当に音楽が好きだったからでしょうが、これを才能と言うのかな?この時の母親がどんなだったかは分からないが、私は聡明なやさしい母親の言動がベートーヴェンを支えたかもしれないと思いたい。父親も根っからのダメ人間じゃないからね。27歳までまじめにやってたんだから。
(6)ヨーハンの教育終わる!多くの出会いに恵まれる
年齢をごまかして、初めて演奏会を行ったのが1778年3月(8歳になる年)。この演奏会はうまくいかず、自信を無くした父ヨーハンは、宮廷の同僚や音楽仲間に教育をお願いすることにした。よかった!ピアノや弦楽器、ホルンを学んでいる。この楽器の勉強は後の作曲に大いに役立っている。昔の宮廷楽長の孫という立場は、息子とはワンクッションおいて、気楽に教えてもらえたのかもしれないね。ベートーヴェンは、修道院の修道士に自らお願いしてオルガンを教えてもらっている。すぐにミサでの代奏もできるようになっている。9歳にして人に教えられるほどに上達している。かなり練習したらしい。(後年弟子たちに話しているという。) この頃も父は、旅行好きもあり、ベートーヴェンの才能を宣伝して歩くことに余念がない状況です。
—考えてみたら、ベートーヴェンの父親もかわいそうな立場にあるなあと思う。立派な地位にあった親とめきめき才能を見せつけてくる息子の間で「普通の私は板挟み状態」みたいに。息子の才能の売り込み、宣伝は、息子を使って楽な生活をするためなのか?父親に息子のような才能があれば、ベートーヴェンは存在せず、父親がまさしくモーツァルトみたいになっていたのではないかなぁ!あひゃー!モーツァルトが2人?それはともかく、自分の存在価値を息子を使って見出そうと必死になっていたのかもしれないね。もしそうだとすれば、痛々しい話だけど、「息子を使って」というところがやっぱり甘い人間なんだろうね。だから、すぐに逃げて酒におぼれてしまう。その繰り返し。でも、あなたならどうするの?と聞かれると困っちゃう!
(7)多くの出会いーネーフェ
1781年、クリスティアン・ゴットロープ・ネーフェという人物が宮廷オルガニストとしてボンにやってくる。指揮者、作曲家、劇団の音楽監督等有能な音楽家として活躍していた。伝統的な音楽形式に縛られず、新しい芸術を模索する音楽家のようでした。宮廷オルガニストとしては弟子を育てることになってたらしく、ピアノ、オルガン、作曲の教師もしていた。自己流の作曲をしていたベートーヴェンに大バッハの「平均律クラヴィーア曲集」を教材として与え、基本から教えていく。この時以降、ベートーヴェンは、自己の音楽を高めていく上で、繰り返しバッハの研究を行っている。ネーフェによって通奏低音の教育と作曲の教育を受け、作曲技法の基礎を習得し、1782年から1783年にかけて、ネーフェの留守中に「オーケストラ付チェンバロ奏者」としての代役(通奏低音付のスコアで即興的に和声をつけてチェンバロを弾きながらオーケストラを指揮する)をこなし、ネーフェはこの少年を高く評価し、「・・・彼がこのまま進歩を続けるならば、必ずや第二のヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトになるであろう・・・」と雑誌に書いている。
また、ベートーヴェン最初の作品「ドレスラーの行進曲による九つの変奏曲」の作曲を促し、出版(1782年11歳)させている。さらに、1792年21歳公費によるウィーン留学もネーフェのおかげなのだ。

bon2 (800x500)ベートーヴェンは家からライン川と山を眺めてたのかな? 川の対岸の南方にジーベンゲビルゲ山脈がある。
通奏低音・・・バロック音楽においてチェンバロなどの奏者が低音旋律と和音を示す数字を見て即興的に和音を補いながら伴奏を行う事。
・黄色い〇がボンの町

*「ドレスラーの行進曲による九つの変奏曲」について、平野昭氏は「左手の和声配置と進行が30年後の第7交響曲の第2楽章冒頭と共通した性格を宿している」と記述している。また、この曲の他に「三つの選帝侯ソナタ」他3曲が1783年に出版されていることを紹介している。

(8)多くの出会いーヴェーゲラとブロイニング家の人々
ベートーヴェンが最初の曲を作曲した後、1784年頃14歳の頃、5歳年上の医学生に出会っている。「フランツ・ゲルハルト・ヴェーゲラー」と言い、後に医者となりボン大学の医学部教授から学長となる。ベートーヴェンの死後、「ベートーヴェン伝」を出版している。そして、フォン・ブロイニング家の人々を紹介している。ベートーヴェンの生涯の中でも非常に重要な出会い。何故ヴェーゲラーと知り合ったのかは不明ですが、彼は頼もしい兄的存在でした。そして、彼が出入りしてたブロインニング家は、ベートーヴェンにとって、心安らぐ第二の我が家的存在だったかもしれない。
この家の父親は、選帝侯邸参事官だったが、候邸の火災の折に重要書類を火災から守ろうとして殉職しているから、この時、28歳の婦人と4人の子供がいた。
長女・エレオノーレ・・・ほぼ同い年:ピアノを教える
長男・クリストフ・・・ほぼ同い年
次男・シュテファン・・・フランツ・リースにバイオリンを学ぶ(ベートーヴェンも一緒に)
三男・ローレンツ・・・ピアノを教える
ほぼ同い年の子供たちと、それぞれの友達も遊びに来るだろうし、さながら、学校のようだっのかも。夫人は、ベートーヴェンの才能を見抜き、我が子のように接していたらしい。いろんな作法や常識や細かなしつけもしてくれたのでしょう。また、この家には、文学や哲学や詩の本が沢山あり、それらをここで読んで(ゲーテやシラーなど)知識を得たようだ。学校教育を満足に受けてないから、この家での体験は、本当に「家庭」兼「学校」として、彼を育てたといえる。(1787年17歳になる年の母親の死以降は毎日のように来ている。そして、20代まで続く。)
(9)宮廷記録から知る家計の状況
多くの人が研究を行っているが、アレクサンダー・ウィーロック・セイヤーという人が伝記「ベートーヴェンの生涯」で当時の宮廷記録を紹介している。
宮廷では、枢密院というところがあって、宮廷の人事権を持っていた。また、採用や昇任や給与に関しては領主である大司教兼選帝侯殿下に直接「請願書」を差し出し、お慈悲を乞う形式をとっていたそうだ。そして、採用後は勤務評定されていたようです。

1783年の勤務評定
J(ヨーハン)・ヴァン・ベートーヴェン、44歳、出生地ボンで結婚、その妻32歳、選帝侯領内に居住する三男あり、各13歳、10歳、8歳、いずれも音楽を修業中。勤続28年、俸給315フローリン。ひどく衰えた声、長年勤務、かなり貧困なれど、振る舞いはまずまずで既婚。

ルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェン
13歳、出生地ボン、勤続2年、無給。第8号記載のベートーヴェン家の息子、無給ながら宮廷楽長ルッケーシの不在中オルガン演奏を担当、まだ若いが有能で、行い正しく落ち着いた振る舞いながら貧困。

この頃は、ヨーハン(父)のアルコール依存症もまだひどくなかったようですね。いや、仕事中にまで影響は出てなかったのかな?「振る舞いはまずまず」だから。でも、年だから声は衰えるだろうけど、酒の影響はあったでしょう。親に対してルイ(ルートヴィッヒ)は高い評価を得てますね。こんな2人が一緒に宮廷音楽家の正装をして宮殿に出かける姿が目撃されているそうだ。
翌年、枢密院メンバーの一人が、ルイの増給を申請してくれている。

1784年6月 宮廷からの給与
テノール歌手ベートーヴェン200ターラー、少年ベートーヴェン100ターラー。

となった。14歳の年、無給から給与を得るようになった。当時のドイツ都市部の中流階級の収入は200~400ターラーだったそうだ。まずまずじゃないの?と思うところだが、ヨーハンは、飲み歩いて使ってしまうからね。ルイが頼りなのだ。ルイは出張ピアノ教師を10歳頃からしていて、このアルバイト収入で家計を助けていたのです。ヨーハンが酔いつぶれて警察に連行されそうになったとき、父親を捜しに来たルイが警官から父親を助けようとしているところをブロイニング家のシュテファンが目撃しているそうだ。・・・ルイは父親をどのように見ていたのだろう。

*1ターラー=銀22.3g 1フローリン銀17.3g だから、ヨーハンの給与は減っているが、2人合わせると増えている。

(10)モーツァルトとの出会い
1787年(17歳になる年)2週間ほどのウィーン旅行をしているけど、詳しいことは分かっていないらしい。ただ、モーツァルトと会ったのは、本当らしいけど、これも詳しいことは分かっていない。弟子によると、ベートーヴェンがとりわけ尊敬していたのは、モーツァルト、ヘンデル、バッハだとしている。また、著者の青木さんは、旅の一つの目的は、モーツァルトに会うことではないか?としている。でも、ベートーヴェン自身の手紙などでもほとんど語られていないようです。
オットー・ヤーンというモーツァルトの研究家が書いた「モーツァルト」の中で、エピソードがある。
「モーツァルトの家に人に連れられてやって来たルートヴィヒは、求められて何かの曲を弾いた。だが、モーツァルトはそれを、この機会のために用意された模範作品とみなして、幾分冷たい口調でほめた。そこで彼はモーツァルトに、即興演奏のテーマを与えてくれるように頼み、尊敬する巨匠の前とあって熱を込めて演奏した。モーツァルトの注目と関心は次第に高まり、ついには、隣室にいた友人たちのもとに黙って近づき、声をはずませて次のように言った。ー彼に注目したまえ。いつの日か彼は、語るに足るものを世界に与えるだろう。-」
この後、2人がどんな話をしたのか?社交辞令だけで終わったのか?すぐに別れたのか?分からない。でも少なくとも、このモーツァルトの言葉がベートーヴェンの耳に入っていれば、どんなに喜び、ブロイニング家の人々に語りまくり、手紙書きまくりだっただろうに。後世に記録が多く残っていたはず。しかし、何も語らず、むなしくウイーンを去ることになる。
 1826年(56歳になる年)、シュタットラー修道院長に手紙を書いている。「あなたが、非常に適切かつ徹底した評論によって、モーツァルトの霊のために正義を守られたことは、誠に快挙であります。「中略」私は常に自分を、モーツァルトの最大の賛美者の一人と考えており、命あるかぎりそうであり続けるつもりです。」
これは、「ツェツィーリア」という音楽雑誌にモーツァルトの『レクイエム』を攻撃する評論が掲載された時、シュタットラー修道院長(モーツァルトファン)が雑誌に反論を掲載したことに対する礼状。
この手紙からも、モーツァルトを尊敬していたことが分かる。
(11) 母の死
1787年7月17日(17歳になる年)、母マリア・マグダレーナは肺結核のた40歳で亡くなった。なんと前の年の5月に女児を出産していますが、マリアの死後4か月後に亡くなりました。前夫の子3人を失い、再婚後第1子を失い、ベートーヴェンが生まれ、その下に二人の男の子がいますね。つまり、マリアは、この子マリア・マルガレーテを含めて5人の子供をなくしたことになります。過酷!悲惨!です。ベートーヴェンはどんなに悲しかったことでしょう。頼りない父親のもと、母親と二人三脚で必死で頑張ってきたはずです。アルバイトをして家計を支えてきましたよね。これまでの人生がベートーヴェンの人間性に大きな負の影を背負わせたことは間違いないと思います。
ところで、1787年はモーツァルトに会ってます。そうです。モーツァルトに会って2週間で母危篤の知らせを受け、急ぎ帰っています。その後1か月半余り後に亡くなっています。知人に宛てた手紙が残っています。

故郷に近づくにつれ、母の病状が思わしくないからと私をせかせる父からの手紙を次々と受け取りました。ーー病める母にもう一度会いたいという切望が、すべての障害を取り除き、大きな困難を乗り越える支えになりました。私は、まだ存命の母に会うことができましたが、最悪の病状でした。彼女は肺結核におかされ、大変な痛みと苦しみに耐えたあげく、7週間ほど前に亡くなりました。彼女は善良そのもので、私にはやさしい母であり、最上の友でもあったのです。ああ!母のなつかしい名前を呼ぶことができ、そして、答える声を聞くことができていた時の私はなんと幸福だったことか。今私は、誰に向かってその名を呼びかけることができましょうか?ーー
(ヨーゼフ・ヴィルヘルム・シャーデン博士宛、1787年9月15日)

母とのエピソードは、一つしか知られていないそうだ。1781年初冬(11歳になる年)親戚に招かれて、二人でオランダへの船旅に出た。船上は寒く凍えそうだった。母は凍傷にかからぬようにと、ベートーヴェンの足を自分のスカートにくるんで暖めてくれた。なにげない光景だけど、この二人だと泣けてきますね。

(12) 成長・飛躍していくベートーヴェン
ベートーヴェンの家庭に悲劇が襲い、辛く暗い生活を送っていたころ、今までの選帝侯が亡くなり、若い新しい(28歳)選帝侯が就任する。意欲に燃え、経費削減や新制度の採用(古い制度の見直し)など積極的に行ったらしいが、一方で、赴任から2年後にはボン大学の創立(1786年)など、教育や芸術には力を入れている。自らも音楽に強い関心を持っていたことから、演劇と音楽が上演可能な国立劇場の設置に向け動き出した(1788年ー18歳になる年)。
光が差し始めましたよ!!!
この劇場のオーケストラのビオラ奏者に採用された。後に親友となる「アントン・ライヒャ」もフルート奏者として採用されている。宮廷付オルガン奏者であるとともにオーケストラの多くの仲間とともに演奏する機会が与えられたことは幸運だったはず。ヘンデル・バッハ・モーツァルト・ハイドン・グルック・ペルゴレージなどの音楽が次々とボンにいた多くの名手たちに演奏されていく。そして、その中で、彼らとともに音を作り出していくベートーヴェンの喜びがどれほどのものだったか。想像に難くない。多くの作曲家の作品を演奏し、多くの仲間と楽器の特徴とか音楽のもろもろについて勉強し、熱く語っているベートーヴェンの姿が目に浮かぶ。
ベートーヴェンが哲学や市民社会の新しい考え方を理解していたのは、まさしくこの頃の環境にあったようです。
新選帝侯は、身分制度の枠を超えた知的活動の自由を認めていたため、ボン大学では多くの先進的な人々の講義があり、ベートーヴェンは受講していたと思われます。フリーメーソン系知識人の知的結社があちこちに創られていたり、ボンではネーフェが新聞を発行し啓蒙活動(読書クラブ等)を行っていたり、新しい風に敏感に感じていたことでしょう。1789年(19歳になる年)にはフランス革命が起こっていますからね。今まで黙々と働き家計を助けながら、音楽に喜びを見出していた彼は、脱皮しようとして青春という多感な時期の春の嵐の中にいたのではないでしょうか。
ところで、1789年、相変わらず父親は酒浸りの日々を過ごし、自分の稼ぎに足らず、借金までしていたらしい。15歳と13歳の弟がいるから、彼が家を守らねばならないから、決心をする。宮廷に請願書を出したらしい。これに対する宮廷の布告は次のようなものだったらしい。

選帝侯殿下におかせられましては、請願者の願いをお慈悲をもって聞き届けられ、以後、その父の仕事をすべて免じ、選帝侯領内の村に引退させるものとす。・・・また、これまで彼が受給してきた年俸のうち100ライン・ターラのみを彼に支給し、残りの100ライン・ターラは請願者たる息子に、彼が目下兄弟を扶養するために得ている俸給と、穀物3袋に加えて支給されるべく、お慈悲をもって命ぜられる。

父親は、これを見て、この布告を有効にする手続きを取らないでくれたら、自分の給与の半分は必ず渡すと懇願したらしい。ベートーヴェンはそれを聞き入れたようだ。この時以後も同じ家に住み続けているからね。
ベートーヴェンの死後、遺品の中から、バッハのカンタータ「天地創造の日の朝の歌」を写譜した未完成の手稿譜が見つかっている。そこには、彼自身の筆跡で「親愛なる父によって書き写されたもの」と書かれていたそうだ。
(13) ボン時代の貴重な多くの出会いがベートーヴェンを押し上げた!!!(最終話)
由緒ある家柄のボヘミア出身のヴァルトシュタイン伯爵家のフェルディナント(26歳)が、選帝侯マクシミリアン・フランツに招かれボンにやってきた。この方は、モーツァルトの崇拝者で自らピアノの演奏や作曲をしていたそうだ。そして、すぐにベートーヴェンの才能にほれ込み(多分ブロイニング家を通じて)、友としてそして支援者としてベートーヴェンを押し上げていく。ともに音楽を楽しみ、また、ベートーヴェンにピアノをプレゼントしたりしている。ネーフェの読書会にも入会している。
ヴァルトシュタインが選帝侯の劇場で古代ゲルマン風のバレエを上演したとき、ベートーヴェンが作曲をしているー「騎士バレエ」。そして、この後、2曲立て続けに作曲のチャンスを与えられている。まず、1790年(20歳になる年)、当時の選帝侯の兄であるオーストリア皇帝ヨーゼフ二世が没したとき、ボンの読書クラブの人々は追悼集会を計画し、音楽をベートーヴェンに依頼している。英雄を悼むための曲ー「皇帝ヨーゼフ二世葬送カンタータ」を作曲。これに引き続き、弟である次の皇帝のための「レオポルト二世即位カンタータ」を作曲。ところが、残念なことにこの2曲とも演奏も出版もされていないのだ。理由はわかっていないが、作曲が期日に間に合わなかったか、あるいは演奏が難しく練習がうまくいかず、発表を断念したためと考えられている。私としては、きっと演奏者がこの曲をうまく演奏できなかったからだと思いますよ!!しかし、ベートーヴェンの強い意気込みが、作曲を遅らせた可能性も捨てきれないけど・・・・。
ともかく、この作曲が、ちょうど旅の途中にボンに立ち寄ったハイドンの目に留まり、高く評価され、2年後のベートーヴェンの弟子入りを許すきっかけとなっている。
せっかく作曲したのに、演奏されなかったのは残念ですが、自分自身のためにとって貴重な体験をしたと思います。後の交響曲第3番「英雄」にもつながっていったのでしょうか?また、周囲の仲間も楽譜を見ていることでしょうから、素晴らしい曲にふれ、あらためてベートーヴェンを信頼していったようです。
この翌年、1971年秋(21歳になる年)、ドイツ騎士団の総監督も務めていたケルン選帝侯マクシミリアン・フランツはマイン河沿いのメルゲントハイムで全国大会が開催される際、宮廷のなじみの劇団とオーケストラをこの地に招き盛り上げようとしました。ベートーヴェンは25人の楽団仲間とともにライン河畔の船旅をしています。青春を謳歌したことでしょう。ベートーヴェンの生き生きとした笑顔が目に浮かぶようです。この船旅の途中、先輩たちに連れられて、ヨーハン・フランツ・クサファー・シュテルケルという人物のところに行っています。当時40歳のこの人物は、ピアニストとしても作曲家としても当代屈指の音楽家だったようです。ベートーヴェンはこの大音楽家のピアノ演奏を聴き、深い感銘を受けたようです。さらにこの方にすすめられて自分の変奏曲を披露した際、このシュテルケルを大いに感動させたといわれているそうです。こうして、ベートーヴェンの名は天才ピアニストとして広まっていくことになります。
1792年7月(22歳になる年)ハイドンがロンドンからの帰途再びボンに立ち寄ります。このとき、ヴァルトシュタインとネーフェの尽力により、宮廷の給費留学生としてウィーンのハイドンの下で勉強することが具体的に決まりました。なんと、フランス革命の余波がヨーロッパに広がりを見せ、ボンもその渦に巻き込まれる3、4か月前の決定。出発は同年11月2日か3日のことだそうです。移動中、フランス軍がドイツに侵攻してきた。馬車はフランス軍を迎え撃つヘッセン軍に遭遇し、その中を突き切り、ライン河ぞいを南下している。ベートーヴェンの金銭出納用の備忘手帳に馬車の馭者に飲み代として1ターラ支出したと記録されているそうです。大変な危険を冒して旅したようです。ちなみに、この備忘手帳のほかに1冊の記念帳が入っていたそうだ。終生大切に保管している。
親愛なるベートーヴェン君!長年の念願がかなって、君はウィーンに行く。モーツァルトの守護神は、護り子の死を悼み嘆いている。・・・・たゆみなき精進を支えに、ハイドンの手からモーツァルトの精神を受け取りたまえ。-君の真の友ヴァルトシュタイン1972年10月29日、ボン
友情は、善なるものと共に  夕べの影のごとく育つ  人生の落日のときまで・・・[ヘルダー]  -真の友エレオノーレ・ブロイニング1972年11月1日、ボン

ベートーヴェンのボン時代にこそ本当の姿を見いだせるのではないでしょうか。ボン時代のことが分かって本当に良かった!

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