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倶利伽羅峠(くりからとうげ)はロマンの峠

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小学校低学年の頃、赤い色のペラペラのSP版のレコードが家にあり、聞いたことがある。「ちんからほい ちんからほい ちんから峠の おうまはほい・・・」というおもしろい歌詞のせいで覚えていた。大きくなって学校の歴史の授業で「倶利伽羅峠の戦い」を習ってから、私の勘違いは始まった。

昔聞いた曲は、「ちんから峠(ちんからとうげ)」という曲でした。作詞細川雄太郎、作曲海沼實により1939年(昭和14年)に発表された童謡。作曲の海沼實さんは、「あの子はたあれ」「やさしいおかあさま」「みてござる」「お猿のかごや」なども作曲してました。漫画・アニメ『ドラえもん』の劇場版『ドラえもん のび太の魔界大冒険』で、魔法の呪文に「ちんからホイ」が用いられていますし、「珍加羅(ちんから)峠の宝物」という話もあります。

そうです。私はちんから峠と倶利伽羅峠を混同してしまっていたのです。いつか行きたい場所として心に残っていたので、ついに行ったのはいいけど、後で調べたら、童謡とは関係ないことが判明。でも、この勘違いが本当に良い場所に導いてくれたのです。

1 どこにあるの?

倶利伽羅峠(くりからとうげ)は、2015年3月14日に北陸新幹線が開通してにぎわっている富山県と石川県の境にある砺波山の峠のことです。石川県河北郡津幡町倶利伽羅と富山県小矢部市石坂の境。この峠を境にして、東側に砺波平野が、西側に金沢平野が広がっている。1183年、源氏と平氏による戦いがあり、倶利伽羅峠の戦いと呼ばれている。

明治に入り、北陸道を継承した国道20号(現在の国道8号の一部)も倶利伽羅峠を通っていましたが、1878年(明治11年)の明治天皇の北陸巡幸の際、倶利伽羅峠は急坂で天皇の輿が通れないため、北の天田越(天田峠)が改修され、後にこちらが国道となったようです。

2 倶利伽羅峠の戦いとは、どんな戦い?

倶利伽羅峠の戦い、または、砺波山の戦い(となみやまのたたかい)は、平安時代末期の寿永2年5月11日(1183年6月2日)に、越中・加賀国の国境にある砺波山の倶利伽羅峠で木曽義仲軍と平維盛率いる平家軍
との間で戦われた合戦。治承・寿永の乱における一連の戦いの重要な戦いの一つ。
治承4年(1180年)、以仁王の平家追討の令旨に応じて信濃国で挙兵した義仲は、翌治承5年(1181年)に平家方の城助職の大軍を横田河原の戦いで破り、その勢力を北陸道方面に大きく広げた。
これに対して、寿永2年(1183年)4月、平家は平維盛を総大将とする10万騎の大軍を北陸道へ差し向けた。火打城の戦い(平家勝利)、般若野の戦い(義仲軍勝利)と一進一退の戦い。
そして、一旦後退した平家軍は、能登国志雄山(志保山とも。現・宝達山から北に望む一帯の山々)に平通盛、平知度の3万余騎加賀国と越中国の国境の砺波山に平維盛、平行盛、平忠度らの7万余騎の二手に分かれて陣を敷いた。それに対し、5月11日、義仲は源行家、楯親忠の兵を志雄山へ向け牽制させ、義仲本隊は砺波山へ向かう。さらに、樋口兼光の一隊をひそかに平家軍の背後に回りこませながら、平家軍の油断を誘う。平家軍が寝静まった夜間に、義仲軍は突如大きな音を立てながら攻撃を仕掛けた。浮き足立った平家軍は退却しようとするが退路は樋口兼光に押さえられていた。
大混乱となった平家軍7万余騎は、我先に逃れようとするが、そこは倶利伽羅峠の断崖。兵は次々に谷底に転落して壊滅。平家は、義仲追討軍10万の大半を失い、平維盛は命からがら京へ逃げ帰った。

3 平家のその後は?

義仲は京へ向けて進撃を開始し、同年7月に上洛。大軍を失った平家は、安徳天皇を伴って京から西国へ落ち延びた。それからわずか2年後の寿永4年(1185年)3月、壇ノ浦の戦いで平家は滅亡する。

4 行ってみました!

まず、埴生護国八幡宮に行きます。新幹線開通のため、JRがなくなり、「あいの風とやま鉄道」の石動駅(いするぎ)で下車。運よく無料バスが神社を経由するというので利用しました。駐車場に資料館のような所があり、一休み。鳥居をくぐり、階段を上ると、見えてきた。かつて、木曽義仲が平家の大軍との合戦を前に勝利を祈願したとされる。その時の祈願書が保存されています。境内には、大きな銅像があり、圧倒されました。さらに、源氏軍が鳩の案内で見つけたとされる鳩清水の滝から流れる水が御手洗石鉢に注がれています。

若宮医王院(小矢部市埴生)

八幡宮から北陸道遊歩道コースの「長坂登り口」までの町中にお寺がありました。この裏手に若宮古墳があります。小さな町ですが、秋の冷気が、過去の歴史の霊気のような気がして、ただものではない雰囲気を感じました。

町中を過ぎ、ここから、山道に入ります。歩道は整備されているものの、枯葉で埋め尽くされ、枯葉の落ちる音に、熊が出現したのかと、ビクビクしながら進みます。所々にスチール缶と棒が用意されているから、なおさら怖い。やっと見えてきたのは、「北陸道峠茶屋」。ホッとする。

猿ケ馬場には、義仲の生きざまに深い思いを寄せた松尾芭蕉の句碑を置いた「芭蕉塚」がある。「義仲の寝覚の山か月かなし」と詠っており、この俳句は、芭蕉が越前で詠んだものだが、義仲が最も華々しい勝利を収めた倶利伽羅古戦場に思いを馳せた句であると言われている。

 

『源平盛衰記』には、義仲軍が数百頭の牛の角に松明をくくりつけて敵中に向け放つという、源平合戦の中でも有名な一場面がある。
しかし、この戦術が実際に使われたのかどうかについては、疑問視する意見が多い。大体、角に松明をつけること自体不可能に近い。火を怖がる牛が、敵中に向かってまっすぐ突進できるとは考えられない。
たぶん、中国戦国時代の斉国の武将・田単が用いた「火牛の計」の故事を下敷きに作られた話であると考えられている。この元祖「火牛の計」は、角には剣を、そして尾に松明をくくりつけるというものだそうで、それなら考えられなくもない。

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