青空とともに生きる

ベートーヴェン交響曲第一番とその頃

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「ベートーヴェンについて調べましたーボン時代」において、ボン時代のベートーヴェンについて少し調べました。そして、1792年(22歳になる年)、給費留学生としてウィーンに旅立つところで終わりました。

ウィーンに着いてすぐ、ハイドンの弟子となり3年間学ぶ。リヒノフスキー侯爵夫妻の住居で暮らして、ホームコンサートなども開催している。ここでも善良な人たちに恵まれているが、さすがに音楽の都である。田舎から出てきたベートーヴェンに批判的な人たちもいた。しかし、シェンクなどに対位法をサリエリにオペラ・声楽を学び、さらにオーストリアでも非常に影響力を持っていたヴァン・シュヴィーテン男爵に評価され、貴重なバッハの作品の楽譜にも巡り合えて、大きな影響を受けることとなる。モーツァルトもこの男爵の出会いにより、同様の恩恵を受けている。

残念なことに、2年後1794年、ボンはフランス軍の占領下におかれ、もう戻るところがなくなったばかりか留学費用が中止になり、その翌年、クロイツガッセに転居している。まさに激動の時代の真っただ中にいるベートーヴェンだった。

そんな中で、1795年、ウィーンの音楽家協会の慈善演奏会でベートーヴェンのピアノ協奏曲が上演曲の一つに選ばれたのだ。自作自演でこの曲を披露し、即興演奏も行っている。この年、ベートーヴェンはピアノ三重奏曲(作品1)をはじめピアノソナタ、ピアノ協奏曲と意欲的に作曲してる。

1796年2月から7月までは、彼にとって唯一の長期演奏旅行を行い、プラハ、ドレスデン、ライプツィヒ、ベルリンと旅している。様々な音楽家や貴族たちと出会い、交際しながらの演奏旅行とその成功は、彼に大きな成長をもたらしたようだ。

翌年、1797年(27歳になる年)には、ボンから逃れてウィーンに来ていた旧友ヴェーゲラーやローレンツ・フォン・ブロイニング(6歳年下の弟みたいな存在)が次々に帰郷した。(このローレンツは翌年ボンで病没している。)そんな悲しい別れの翌年、カール・アメンダという友人を得る。この他にも別れや出会いを繰り返しながら、着実に室内楽や声楽を作曲している頃だ。

1798年(28歳になる年)、ネーフェが亡くなり、難聴の兆しが現れる。
1801年に内科医ヴェーゲラーとアメンダという2人の友人にあてた手紙の中で、3年前からということで症状を書いている。
この年、ピアノソナタ第8番ハ短調作品13<悲愴>が作曲され始め、翌年完成する。ベートーヴェン初期の代表作品だ。この悲愴という標題は、めずらしいことだが、彼自身の命名だ。

この彼自身が命名した標題の悲愴という曲は、リヒノフスキー侯爵に献呈されている。ロンド形式の楽章が第2第3楽章と続く形式となっている。新しい形式の曲は、当時賛否両論の嵐となっている。しかし、重要なことは、この年、すでにこの曲は、モーツァルトやハイドンの影響を払拭して、彼独自の世界を形作っている。非常にまとまりのある素晴らしい曲となっていることだ。そして、何かしら決意のようなものも伝わってくる。第1楽章は青春時代に多くの人を失ったり別れたり、そして難聴に見舞われたり、そんな悲愴感漂う楽章から第2楽章のロマン的な極上の美しいメロディーへ(ボン時代への郷愁か?)、第3楽章はまた、第1楽章をひきずり心が揺れ動いている感じがする。

1799年から交響曲第1番に着手する。

1800年4月2日には自主音楽会を開催し、1795年に作曲していたピアノ協奏曲第1番と完成した交響曲第1番を演奏している。

1802年(32歳になる年)3月には交響曲第2番も完成させたが、夏から秋にかけてハイリゲンシュタットに滞在し、難聴が治らないものとして遺書を書くに至る。

しかし、この時、同時に音楽家・芸術家としての重大な決意も行う。

そして、1804年には、あの交響曲第3番エロイカを完成させる。そして、これまでに存在しなかった芸術家としての地位を築くために邁進していくのだ。

さて、この交響曲第一番ハ長調作品21(ヴァン・シュヴィーテン男爵に献呈されている。)は、難聴のきざしが見られるようになって、気持ちを奮い立たせてピアノソナタ第8番悲愴を書き上げ、すぐにこの曲に着手しているらしい。スケッチが発見されておらず、いつから着手したかは不明となっている。非常に知りたいところだが、いたしかたない。室内楽などを作曲していた間に早く交響曲を作曲したいと思っていたに違いないが、今までにたどってきた経緯からみて前年から着手していたとして、全く違和感はない。
それはともかく、この交響曲の第1楽章の第1小節から第3小節の部分です。ハイドンやモーツァルトのように短い12小節の序奏部の出だしです。ハ長調交響曲の第1小節はヘ長調の5度の上の不協和音で始まります。第2小節はイ短調の不協和音、第3小節はト長調の不協和音と続く。何故こんな始まり方をさせたのかは、解明されていない。

ハイドンの弦楽四重奏曲変ロ長調に見られるが交響曲にはない。べートーヴェンの作品でも同じ頃作曲されたバレー音楽「プロメトイス」に見られるのみです。

もう一度振り返ってみます。1797年、ボンから逃れてウィーンに来ていた旧友ヴェーゲラーやローレンツ・フォン・ブロイニング(6歳年下の弟みたいな存在)が次々に帰郷した。旧友が来ている間、別に遊びに来てたわけではなく、亡命みたいなものだけど、みんなで昔話をして楽しく過ごす時間を得たかもしれません。

彼らが帰った後にまた親しい友人ができています。彼らがベートーヴェンの心を支えてくれたものと私は信じています。
ピアノソナタ悲愴の第2第3楽章は、非常に落ち着いて、しっかりとした構成力に安定した彼の心が読み取れます。多分、不安が急に心を突き上げるけど、まだこの頃は、何とか明るさも持ち合わせていたと私には思えます。これ以上難聴が悪化しないよう希望を持っていたことでしょう。
ウィーンの聴衆がこの交響曲の出だしに「ええっ?」となったのはよくわかります。こんな音楽聞いたこともないと思われますから、批判があったこともうなづけます。しかし、私は、この出だしがたまらなく好きです。ベートーヴェンが茶目っ気たっぷりにこう言っているように思えて笑ってしまいます。「ウィーンのみなさん!私の初めての交響曲です。私はハイドンやモーツァルトを尊敬しています。彼らの音楽を学んで私も成長でき、やっとここまで来ました。最初は不安ですがきっと立派な音楽家になってみせます。どうぞよろしくお願いします。」
提示部には、安定した主題のもと、軽やかなリズムで転調が繰り広げられる、なんとも心地よい音楽が朝のさわやかさを感じさせる。よく「朝、コーヒーを飲みながら聞きたい曲」と言われるが、全く同感です。
さらに、第4楽章にもベートーヴェンのユーモアが見られます。

第4楽章の導入部6小節までの表現に思わず笑みがこぼれる。
まず、全奏でト音が演奏され、それから第1ヴァイオリンで上行的スケールの形を5回、ト音で始まる上昇音階が3度、次もト音から始まる上昇音階が今度は4度、同じように5度、6度、7度と演奏する。6回目は第1主題として急速的に主部に飛び込んでいく感じです。 

第1楽章の始まりと第4楽章の始まりに、こんなユーモアで私たちを彼の世界に招待してくれることに私はうれしくなる。これも大切なべートーヴェンの一面だということを忘れないでおきたい。

ボン時代に親や年下の兄弟の世話をしながら音楽を続け、多くの人の善意に支えられながらなんとかここまで来た彼にとって、1800年(30歳になる年)の交響曲の発表は、音楽家にとっては遅咲きだが、見事です。交響曲第2番はさらにベートーヴェンらしい素晴らしい曲にしています。ご存知交響曲第3番は、すでに大作曲家の代表曲となります。非常に短期間のうちに飛躍的な成長を遂げます。
この交響曲第3番以降のベートーヴェン像が多くの人の印象かもしれませんが、ユーモアも茶目っ気も持ち合わせた人だったと私は信じています。

参考図書
「ベートーヴェンの生涯」平凡社新書10周年 青木やよい著

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