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世の中にはいろんな人がいる。そしていろんな環境の中にいる。すべての人が同じ瞬間に、拳銃やナイフを突きつけられていたり、笑っていたり、寝ていたり、泣いたり、病気になったりしている。世界で何が起ころうと何も考えずに能天気に暮らしている人、常に何かに警戒して暮らしている人、いろんな人が暮らしている。そして、ここにはここの時間がある。
野川マスター 「いらっしゃーい!あっ、ジョーちゃん。」尉火焚は、いつもの窓際のカウンター席に座ろうとしたが、もうすでに誰かがいるので、席を一つ空けて座ろうとした。

野川マスター 「ジョーちゃん。ビンちゃんの席のすぐ横に座ってくれる?今日は金曜日だし、席が埋まると思うから。お願ーい。」
尉火焚は言われるとおり、”ビンちゃん”という人の横に座りなおした。「失礼します。」「マスター!生(ナマビール)お願い!」     野川マスター 「はーい。」

 

尉火焚 「今日は雨だね!まっ梅雨だから仕方ないね。でも風も強いから大変だよ。風か雨かどっちかにしてほしいね。」

野川マスター 「そうねぇ。この梅雨時の雨で毎年被害が出るようになったね。いやだね。」

横のビンちゃんという人がぼそっと言った。「気候学的に言えば、数十年数百年先の気候が大きく変わろうとしている時、その前段階の今でも、短い単位で温度が激しく上下して、雨や風も激しくなるんだよね。」

尉火焚は、突然訳の分からない難しいことを言う人に聞いてみた。「気象庁の方ですか?」

野川マスター 「その方は、百舌(もず)さんだよ。ビンちゃんと呼んでるよ。ほれ、モズグループの御曹司さんだよ。」

意外な方向から意外な答えが返ってきて戸惑ったが、「あっ、そうですか。よろしくお願いします。」と一応言っておいた。心の中で思った。「この店のマスターは教授と呼ぶにふさわしい方だと思っていたのに、個人情報もくそもない今の発言は何?この店では個人情報保護という言葉が通用しないとなれば、なんだか怖いな。」しかし、自己紹介する手間が省けたことは確かである。マスターがジョーちゃんの注文した生ビールを差し出した。「はい、どうぞ。」

すかさず、横にいたビンちゃんこと「百舌 敏(もず さとし)」が自分のジョッキを差し出し、しわがれた声で言った。「乾杯!」条件反射のようにジョーちゃんも応じて2人は初対面にして、しかもすぐに乾杯を行ったのである。個人情報保護無視のナセルワザ!しかし、モズグループと言えば、設備関係、建設、不動産と手広くやってるところだ。ジョーちゃんも知っている。忙しくないのだろうか?生命保険会社の調査員をしているジョーちゃんとは大違いだ。眉間に深いしわがあり、貫禄があるが、どうかすると自分より若く見える瞬間がある。不思議な感じがする人だ。

尉火焚 「先ほどは失礼しました。あのー、気象学じゃなく気候学でしたっけ?何のことか分からないけど、大きな変化の前に小さな変化が頻繁に起きるようになるということですよね?」

百舌 「う~んんん」「日本に奇跡の湖があること知ってる?レイクスイゲツとして世界に知られてるんだけど。」

百舌 「福井県の三方五湖(みかたごこ)の湖の中の一つでね。奇跡の湖だよ。過去の気候を知るためにはいくつか方法があるんだよね。氷河の氷床を長い筒の中に入れながら掘り進む方法があるけど、この場所では泥を掘り進むんだよ。年縞堆積物45メートルで約7万年前の気候状態が分かる。川から土砂が流れ込まず、湖底に酸素がなく、冷たい水も届かない、長い間湖底が少しづつ沈降し続けて水深が深いまま湖底に堆積物が溜まり続ける、色んな好条件が何万年も続いたんだよ。これが奇跡でなくなんだよ!!!って感じだねぇ!」百舌は興奮して生ジョッキを持ち上げ、グイッと一飲みして続けた。「1万2600年前までの年縞は、誤差がないと世界も認めて地質学の標準時計となってるんだ。つまり、誤差なく1万2600年前から何が起きてきたかが分かるらしいよ。過去を知ることで未来が分かってくるんだよ。今日や明日の気象じゃなくて、地球全体の歴史と関係する気候を研究することが気候学だよ。んっ? だと思うよ。」「うぐっんん うぐっんん うぐっんん」少し疲れた様子で息を整えている。「ジョーちゃん!」

尉火焚 「はあ?!あれっ?ジョーちゃんって・・・」

百舌 「うぐっんん マスターからさっき聞いてたので。ジョーちゃんと仲良くなれるんじゃないの?って言ってたよ。」恐るべし!マスター!個人情報保護が存在しない店!!!「ジョーちゃんの趣味は何なの?」

尉火焚 「あっ、これは聞いてないんだ・・・。」「あの・・・。」生ビールを少し飲み、ジョッキをサッと置いて「一応クラシックが好きなんですよ。」と答えた。なんだかスイッチが入ったようだ。「ミッション系の幼稚園に通ってたもんで、毎朝の讃美歌を歌うのが楽しくて楽しくてね。」「小学校の頃は、放課後にいつも校内にチャイコフスキーのくるみ割り人形の音楽が流れてて。音楽の時間にはレコード鑑賞があってクラシックを聞くのが楽しみでした。同じロシアの作曲家ボロディンの”中央アジアの草原にて”を聞いてたら、広大な草原の景色が広がってきて、すごく楽しかった。シベリウスの音楽聞いたら、寒々とした北欧の景色が浮かんできたりして、本当に楽しかったんですよ。」「あの頃は、音楽は自然そのものだと思ってた。」「今は、音楽は自然と人生そのものだと思えるけど。」尉火焚は、日ごろのうっぷんを晴らすかの如くクラシック音楽について一気に語る。ベートーヴェンとモーツァルトの違い、バッハとヘンデルとの違い。みんな貧しい時代に生きた本物の音楽を創造した素晴らしい音楽家たちであることを。ウィーン少年合唱団に入りたかったこと。

百舌 「ジョーちゃんすごいね。クラシック。今時すごい趣味だね。」確かにもうクラシック音楽はすたれている。

尉火焚 「ちょっと語りすぎたかな?」

百舌 「そんなことないよ。いい話きかせてもらったよ。」

尉火焚 「ところで・・・あの・・・ビンちゃんさん?でいい?」

百舌 「さん は要らないんじゃない?」

尉火焚 「百舌さんのお名前は?」

百舌 「さとし。敏感の敏だよ。別に敏感でもないけど。うぐっんん、うぐっんん。」
アルコールの力はすごい。もう二人は昔からの友達のように隣同士でしゃべってる。アルコールが二人の体に中に入って行かなかったら、ただの同じ居酒屋の客で終わっていただろう。しかし、百舌は、咳払いでもないが、カエルの低い鳴き声のような感じで独特の間の取り方をする。

尉火焚 「ところで ビンちゃん。奇跡の湖の話は?」もうビンちゃんと呼んでいる・・・。

百舌 「うぐっんん・・・過去に地球で何が起きて、どういう状況になったのか。酸素と二酸化炭素の関係がどうなるとどう変わってくるのか。いろんなメカニズムが明らかになると、ある程度未来の気候も予測できるし、事前に最悪の事態を防げるかもしれない。」「ヨーロッパから始まった産業革命から現在までの人間が作った温暖化は、自然に温度が上昇する数万年分に匹敵するという学者もいるんだよ。だとすると、この2百数十年で何万年分も温暖化を速めていることになる。だとすると、今は氷河期の中の間氷期で、うぐっんん・・・1万1600年前から始まってるけど、うぐっんん・・・ この気候が安定してる間氷期が人間の活動によってさらに数万年経過してしまったと考えられるから・・・ うぐっんん 目先の温暖化は一時的でその先にはまた長い氷期が待っているかもしれない。ということだよ。」「砂漠は一日でも温度差が30度くらいある。日本でも北海道では夏の最高気温と冬の最低気温の差はすごいよ。温暖な今も、考えると・・・南極という氷の大陸がありシベリアもある。寒い地域は広い。逆に暑いアフリカや砂漠がある。世界全体でみると厳しい環境で生きていることは確かだ。」「この激しい温度差の地域が広がっていくよ。」

尉火焚 「ビンちゃん 怖いね!でもまだ大分先の話でしょ?やっぱりビンちゃんは気象庁の人だよ。いや、これから教授と呼ぼうかな?」何でこんなに物知りなのか不思議に思う尉火焚だった。

その時、厨房で大きなくしゃみが聞こえた。目をやると、マスターの料理着の帽子が脱げてるではないか!!!天井の蛍光灯の白い光を見事に反射している。あわてて帽子を元に戻そうとしているが、その前に耳元から伸びているやけに長い髪数本を大事そうに向こうの耳元の方へ渡している。そして素早く帽子をかぶった。その間5秒ほど。一瞬の出来事に思えた。「へーーーーそうなのかぁ。」尉火焚は驚きの真実をそっと心の中にしまった。見てはいけないものを見てしまったのだ。ビンちゃん越しに窓の外を眺める。雨も風も強そうだが、地にしっかりと根を張った樹木が守ってくれている。通りは、傘が飛ばされないようにみんな足早に必死で家路を急いでいる。尉火焚は思った。「もし、電気、ガス、水道、そしてそれらを使いこなす機器がなかったら、人間は、毎日雨風をしのぐ住処と食事を得ることだけしか余裕がなくなるだろう。それって野生動物じゃん。ビンちゃんの言うとおり、今も結構厳しい自然環境にあるけど、エアコンだの電子レンジだのがあり、電気やガスによる全自動で風呂にも入れる。ひとたび家の中に入ると快適な別世界となるから、自然の厳しさを忘れてしまう。ありがたい話だが、あまりにも便利さに慣れすぎている。ひとたび自然災害の牙の犠牲者になると、何もできない。

「いらっしゃーい」
着物姿の少し猫背の初老の女性が入ってきた。すっと尉火焚の席の横に座り、「骨付鳥といつものくださいな。」マスターが「はーい。」と返事する。いつものというからにはどうも常連らしい。そう言えば以前に見かけたかもしれない。ビンちゃんがすかさず赤ら顔の満面の笑みで声をかける。「あっ、どうも目白さん!」

続く(不定期)