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世の中にはいろんな人がいる。そしていろんな環境の中にいる。すべての人が同じ瞬間に、拳銃やナイフを突きつけられていたり、笑っていたり、寝ていたり、泣いたり、病気になったりしている。世界で何が起ころうと何も考えずに能天気に暮らしている人、常に何かに警戒して暮らしている人、いろんな人が暮らしている。そして、ここにはここの時間がある。

夕日が店の中を横切る。マスターが調理をする手のあたりを照らす。一年で一番昼間が長い夏至がすぎ、梅雨時だが、今日はいい天気だ。なんだか楽しくなり、はしゃぎたくなる・・・そんな気分だ。夕日は、尉火焚(ジョービタキ)が座っているカウンターの上をやさしく照らしている。

・野川マスター 「ジョーちゃん、何にする?」

・尉火焚 「えっ?」周りを見渡す。まだ誰も客がいないから、多分いや俺の事だろうことはすぐわかった。「おれ いつからジョーちゃんになったの?」

野川マスター 「今から!はっ、はっ、はっ、」「毎月1回から2回、最近は毎週1回は来てくれているし。」「いつだったか。会社の関係で来てくれた、領収書書く時、ほれ、名刺くれたでしょ?変わった名前だな!と思って。でも名前長いからジョーちゃんでいいんじゃない?」

・尉火焚 「あっ、そうか。そうだった。名刺渡したんだ。」「でも何だか女のお嬢ちゃんみたいだね?」「でも、まっ、いいか!」・・・心の中で”なんか最近男より女の方がちょうどいいと思うようになったからな。”と笑ってしまった。「マスター!ありがとう。かっこいいな。ジョーだぜ!」

マスターがすかさず「あしたのジョー。銀髪のジョー。かっこいいね!」と言う。

はじめてだ。こんな会話。親し気なこんな会話。心地よい。夕日が照らしたマスターの指の動きが俺の心を動かすように感じた。何だか心臓の血管の中まで探られているようだ。そうだ!1週間前に病院で体験したカテーテル検査を思い出した。手首の血管から心臓まで管(くだ)が通され、心臓が異物に支配されるという体験。その時の検査では、心臓や血管に異常はなかった。あの胸が苦しくなる症状は何だったのか!?ストレスか?「あっ!生ビール中ジョッキとネギま・・・・ お願いします。」

尉火焚は笑いながらもこんな変なことを考えながら、すぐ横にある窓越しに外の風景を楽しむ。
この店の横には自転車道と歩道を兼用した遊歩道がある。大きな樹木が伸び、木の葉が道を左右から包み込んでいる。こんな風景が駅や道路に阻まれながらも20数キロ続いている。そして、この道路の反対側には、水量は少ないが、きれいに整備された川が流れている。増水した時のために水量の割に深く掘られた河川敷になっている。駅前の繁華街の道路とは筋が一つ違い、人や自転車の通行量は多くも少なくもなく、ちょうどいい感じだ。

遊歩道ではこの季節、紫陽花が真っ盛りだ。そして、立葵(たちあおい)がしゃきっと背筋を伸ばしている。

・尉火焚 「マスター!立葵がいいね。好きな花だよ。」

・野川マスター 「あぁ、立葵か!梅雨入りの頃下の方から咲き始めて、だんだん上の方に花をつける。一番上に花をつける頃、梅雨が明けるというね!」

・尉火焚 「えっ?そうなんですか!へぇ~~~~。」

尉火焚は聞いてみた。「マスターは物知りだね。失礼なこと言うけど、前からずっと居酒屋やってたの?」

・野川マスター 「私は、元新聞記者だったのよ。毎々新聞の通信部記者だった。転勤が多くてね。でも、ここが好きで、退職金でこの店をやることにしたんだよ。いろんなことがあった。この日本には。自分にもね。」「前から料理には興味があったし、酒も好きだから。いやいや、酒はもう店が終わってから少しだけしか飲まないけどね。」「野川 繁といいます。よろしくね。」

・尉火焚 「えっ?野川ってこっち側の川が野川だよ。」「おんなじだね。」

・野川マスター 「そうなんだよ。だから親しみを感じてね。鳥取の大山のふもと出身だよ。」

・尉火焚 「だいせん?山の?」「じゃぁ、ひょっとして、メニューの地鶏は、おおやま地鶏でなくだいせん地鶏?鳥取の地鶏ということ?」

・野川マスター 「そう、中国地方の有名な姿が綺麗な山だよ。標高1,700メートル。神奈川県の丹沢にある山は、おおやまだよね。」

尉火焚の知らない話がどんどん出てくる。すごい。さすが元新聞記者だ。

・野川マスター 「この辺りじゃ大山地鶏を扱っている店多いよ。人気だよ。うれしいね。」

・尉火焚 「これうまいなぁと思って食べてたけど、そうなんだ・・・・。」「へぇ・・・・」

ジョーちゃんこと尉火焚は、このマスターに不思議な親近感を感じていた。この店もこの景色も大好きだった。今日は、ジョーちゃんになった素敵な日だった。

続く(不定期)